1947年(昭和22年)
5月27日 横浜教区 第4代教区長 トマ脇田浅五郎師 司教叙階 着座
1948年(昭和23年)
聖コロンバン会が宣教のために来日、神奈川県湘南地域の司牧を委託。日野神父は、山手教会の伝道師、藤井伯民師を小田原教会に招聘。藤井師(1883~1965)は戦前からカトリック教会の文書伝道に貢献したことで知られ、小田原教会では単身ヨゼフの家で自炊しながら、10数年間、多くの求道者に教理を説いて導いた。
1950年(昭和25年)
1月 日野久義師離任; 聖コロンバン会最初の司祭、フリール師(主任)、キルケニー師(助任)着任。
フリール師は、畳敷きだった聖堂を板張りに改装、信者席に祈祷ベンチを設置。信徒使徒職の活動を推進するため、生活困窮者援助のための国際的組織「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会」に加入。その青年会員の辻村栄次郎は、後に司祭召命を受ける。
1951年(昭和26年)
フリール師、教会にボーイスカウトを結成、小田原地区連盟に加入。少年たちがたくさん教会に集まるようになる。
11月18日 フリール師離任; オケイン師(主任)、ライル師(助任)着任。
11月28日 小田原大火が発生。旧小田原市万年町、現在の浜町4丁目で、321世帯、1,479名が被災。教会はヴィンセンシオ会を中心に被災者の救援活動に従事。
1952年(昭和27年)
2月24日 横浜教区 第5代教区長 ルカ荒井勝三郎師 司教叙階 着座
1954年(昭和29年)
オケイン師、1921年にアイルランドで始まった信徒による祈りと奉仕の「レジオ・マリエ Legio Mariae」を小田原教会に導入。多くの信徒が参加して教会活動の中核を担う。会員の中から、後に5人の修道女が誕生する。
翌年、オケイン師離任; コニーリー師、フィナティ師着任。
1957年(昭和32年)
12月21日 小田原教会、聖テレジア聖堂で初の叙階式。小田原教会出身の山崎正俊師の司祭叙階式が、荒井司教の司式で行われる(師は2006年帰天)。二人目の司祭叙階式は、1962年10月7日、小田原教会出身のフランシスコ会士、辻村栄次郎師の叙階式(師は1993年帰天)。
1962年(昭和37年)
第2バチカン公会議(1962~1965)
第2バチカン公会議は、カトリック教会に「現代化(アジョルナメント Aggiornamento)」という典礼刷新と教会共同体に新たな希望をもたらす大きな原動力となる。現在の開かれた教会は、この公会議の精神を受け継いでいる。
1976年(昭和51年)
ヌベール愛徳修道会 小田原市栢山に修道院を開設。その後、25年間、典礼、教会学校、教理指導、福祉活動など、小田原小教区の福音宣教のために多大な働きをする。
1979年(昭和54年)
小田原教会 創立100周年
5月 ライル主任司祭着任
12月9日 小田原教会ゆかりの司祭11名の共同司式による100周年の感謝のミサと祝賀パーティー(労働会館にて)。
「小田原カトリック教会百年記念誌」を発行。
1980年(昭和55年)
1月15日 横浜教区 第6代教区長 ステファノ濱尾文郎司教 着座
6月 ライル師離任; スカーリー師着任。
教会委員会が信徒使徒職委員会に移行して、典礼部、福音宣教部、財務部、総務部で構成。
「カトリック小田原教会だより」第1号を発行。
1981年(昭和56年)
2月23〜26日 教皇ヨハネ・パウロ2世 日本訪問(東京、広島、長崎)
「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」ヨハネ・パウロ2世が広島から全世界に向けて発せられた平和のメッセージは、今も人々の記憶に新しい。日本のカトリック教会はこれを記念して、8月6日から15日までの10日間を「日本カトリック平和旬間」に制定。全国の教会で平和を求める祈りが献げられるようになる。
2月24日 東京後楽園球場での教皇ミサに小田原教会からも多数が参加。記念文集を発行。
1985年(昭和60年)
神奈川県湘南地区の司牧を、聖コロンバン会から横浜教区に移管。小田原教会での聖コロンバン会宣教師による司牧は、1950年から35年間、司牧司祭は20名に及んだ。聖コロンバン会は、当時の小田原教会の宣教司牧区域に五つの新教会を設立。
1986年(昭和61年)
3月 ヌベール愛徳修道会 小田原修道院が一時閉鎖
9月 小田原教会最後の聖コロンバン会司祭、スカーリー師離任; 横浜教区司祭、日野武満師着任。