その短い生涯
1873年1月2日、フランス、ノルマンディー地方のアランソンで、父ルイ・マルタン、母ゼリー・ゲランの9番目の子として生まれる。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。兄弟姉妹9人のうち、兄2人と姉2人が夭折し、5人姉妹の末っ子として育つ(上から、マリー、ポリーヌ、レオニー、セリーヌ、テレーズ)。テレジア4歳の時、母親が亡くなり姉ポリーヌを第2の母となる。1877年、父マルタンは娘たちのために、妻の実家ゲラン家が住むノルマンディー北部のリジューに転居。ベネディクト会経営の寄宿学校に入り、初等、中等教育を受ける。姉のマリーとポリーヌが、厳格な観想修道会であるカルメル修道会のリジューの修道院に入会。テレジアも修道生活を目指すようになる。16歳の時、司教の許可を得てカルメル会に入会。17歳で誓願を宣立して正式な修道女となる。修道女名は「幼いイエスと尊い面影のテレジア」。20歳の時、修練長補佐に任命される。1894年、父ルイ・マルタン死去。最後まで父に付き添っていた姉セリーヌもカルメル会に入会。1896年4月2日、肺結核を罹患していたテレジア最初の喀血、それでも修道院の政務日課は続けていた。そして、死の時まで続く信仰の試練が始まる。1897年7月8日、病状が悪化して病室に移る。9月30日午後7時20分、テレジア息を引き取る。享年24歳。9年間の短い修道生活だった。
テレジアは、祈りと観想の修道生活の中で、のちに自叙伝原稿と名づけられる三つの文書を書き上げている。(原稿A)テレジア22歳の執筆。当時の院長だったメール・アニエス(姉ポリーヌ)の依頼によって書かれ、幼年時代の思い出からカルメル入会までと信仰生活の歩みが記されている。(原稿B)23歳の執筆。代母であった長姉、聖心のマリーにあてた手紙として、テレジアの提唱する霊的幼児の道「小さい道」について書かれている。(原稿C)死の4ヶ月前、その時の修道院長の命令という形で書かれたもので、カルメル会での修道生活についてと兄弟愛についての論考からなっている。この三つの文書こそが、没後のテレジアの運命を大きく変えていったものである。
聖人までの道程
カルメル会では修道女の死に際して死亡通知に略歴を添えて修道院に回覧する慣習があり、ポリーヌは原稿Aと原稿Cをもとにテレジアの略伝を作成し回覧した。これが大きな反響を呼び、テレジア帰天の翌年、ポリーヌは3つの自叙伝原稿に「最後の言葉」と題される文章をつけて12章からなる自叙伝に編集する。これに「ある魂の物語」という表題をつけて、1898年9月30日に出版。初版の2000部はたちまち売り切れ、増刷が続く。やがて多くの言語に訳され、テレジアの名声は世界中に広まるようになる。日本でも1911年(明治44年)パリ外国宣教会のシルベン・ブスケ神父によって「小さき花」という表題で翻訳、出版される。こうして、テレジアの自叙伝は多くの読者を魅了しながら、版を重ねていく。
テレジアに対する人々の熱狂は、テレジアの列聖運動に向かってゆく。
1914年 | ピオ10世教皇、テレジアの列福調査開始の教令に署名。 ベネディクト15世教皇、列聖調査は死後50年以降という教会法の規定をテレジアに限り免除、 直ちに調査が始められるようにした。 |
1923年 | 4月29日 ピオ11世教皇により、福者に列せられる。 |
1925年 | 5月17日 同教皇により、聖人に列せられる。 |
1927年 | 12月14日 聖フランシスコ・ザビエルとともに宣教の守護聖人になる。 聖テレジアは、宣教師のために祈ることを使命とし、宣教師を志す神学生の霊的援助をしていた。 |
1929年 | 9月30日 フランスのリジューで聖テレジア記念大聖堂の起工式。 |
1937年 | 7月11日 後にピオ12世教皇となるパチェリ枢機卿、大聖堂を祝福。 |
1944年 | 5月3日 ピオ12世教皇により、聖ジャンヌ・ダルクとともにフランスの保護聖人に宣言される。 |
1954年 | 7月11日 リジューの聖テレジア大聖堂が最終的に竣工して、献堂式。 |
1992年 | カルメル会およびフランスの司教団によって聖テレジアを教会博士に推挙する請願が教皇に提出される。 |
1994年 | 3月26日 ヨハネ・パウロ2世教皇により、聖テレジアの両親である父ルイ・マルタンと 母ゼリー・ゲラン・マルタンが尊者に挙げられる。 |
1997年 | 10月19日 聖テレジア帰天100周年 ヨハネ・パウロ2世教皇により、2000年の教会史上で33人目、 女性では3人目の教会博士の称号を授かる。聖テレジアの天才的な直観がとらえた霊的幼児の道、 小さい道の卓越性と教義上の正当性と新しさが認定されたということである。 |
2008年 | 10月19日 ベネディクト16世教皇により、マルタン夫妻、列福。 |
2015年 | 10月18日 フランシスコ教皇により、マルタン夫妻、列聖。 |
聖テレジアの著作物
1992年、フランス語版の聖テレジア著作全集が発行された。内容は、自叙伝原稿314ページ、266通の手紙325ページ、詩131ページ、聖劇台本170ページ、最後のことば200ページ、祈祷文19ページ、その他45ページとなっている。聖劇台本と祈祷文以外は日本語訳があり、入手も容易である。評伝、解説本も多数出版されており、現在聖テレジアを知る便宜はたくさん与えられている。
カトリック小田原教会と聖テレジア
現在の小田原教会の聖堂は1931年にパリ外国宣教会のルイ・マトン神父によって建てられたものであるが、マトン師は聖堂の守護聖人として新しく幼いイエスの聖テレジアを選んでいる。小田原教会はすでに52年の歴史を刻んでおり、聖ヨゼフを守護の聖人に仰ぎ聖ヨゼフ教会として人々に親しまれていた。マトン師はなぜ新しい守護聖人を選んだのであろうか。変更の理由についての資料や言い伝えはない。あとは推測であるが・・・
フランス生まれだったルイ・マトン神父は、もちろん“Histoire d’une Ame”「ある魂の物語」を読んだはずである。そして、聖テレジアにすっかり魅了されたのであろう。建設された聖堂は小田原教会としては初めての本格的な聖堂であり、その新しい聖堂に、新しい時代の聖人を選んだのではなかろうか。聖テレジアはこの時、没後34年、聖人に挙げられてわずか6年目、聖女の4人の姉たちもまだ全員健在だった。小田原教会の新しい聖堂が完成し、聖具が飾られていく。祭壇正面の壁の上部には聖テレジアの大きな肖像写真が掲げられた。フランスから運ばれた二つの聖像が安置される。聖テレジア像と聖ヨゼフ像である。聖ヨゼフ像は、かつて聖ヨゼフ教会だったことの記憶を留めるためだったのであろうか。
さて、カトリック小田原教会は2021年12月に聖テレジア聖堂の献堂90年を迎えた。現在、日本のカトリック教会で幼いイエスの聖テレジアを守護の聖人としているのは26教会を数えるが、90年以上の歴史を刻んでいる聖堂はわずかであろう。これからも大切に守っていきたいものである。
参照
「幼いイエスの聖テレジア – 帰天百周年教会博士授与記念」奥村一郎編 男子跣足カルメル修道会発行(1998年3月22日)文献から引用・参考にしました。
聖テレジアの名前は、フランス語読みではテレーズですが、ここではカトリック教会の公式名であるテレジアで表記しています。
「教会博士」の称号は、聖人の中でも特に優れた神学的思考により神の聖性への道を歩んだ聖人に贈られます。現在まで、カトリック教会では37名の教会博士が宣言されており、その中に女性の教会博士は4名います。時代順に、ビンゲンの聖ヒルデガルト、シエナの聖カタリナ、アビラの聖テレジア、そして、リジューの聖テレジア(幼いイエスの聖テレジア)です。