カトリック小田原教会
Catholic Odawara Church

パリ外国宣教会の時代

1873年(明治6年)

キリシタン禁制の高札撤去

パリ外国宣教会の宣教師11名が横浜に上陸。その一人、ジェルマン・レジェ・テストヴィド神父(Germain Leger Testvuide 1849 ~ 1891)が多摩、神奈川、静岡方面を伝道して、小田原にも福音の種を播く。

1879年(明治12年)

伝道所の開設

1月 テストヴィド師、伝道士の細渕源一郎、山中孝の三氏連名で町役場に天主教伝道を願い出る。小田原駅十字一丁目第64番地(現在の小田原市南町1丁目、諸白小路バス停の側)にあった内田鉄次郎宅を借り受け、初の伝道所を開設。
4月 この年、信者14名が洗礼を受け、翌年にも25名の受洗者が育つ。小田原の地にカトリック信仰共同体が誕生する。

1881年(明治14年)

聖ヨゼフ教会の誕生

信者が増えて伝道所が手狭になったことから、新しく旧小田原駅緑町二丁目(現在の小田原市栄町3丁目)の武家屋敷を購入して移転。既存の住宅を、聖堂、司祭室、集会室にしつらえる。守護聖人に聖ヨゼフを戴いたことから「聖ヨゼフ教会」と呼ばれるようになる。ここでの教会活動は、関東大震災まで42年間続き、その間10名の司祭が巡回司牧に従事した。

1923年(大正12年)

9月1日 11時58分 関東大震が発生

マグニチュード7.9の未曾有の大地震が関東地方南部を直撃。東京市では地震直後から大規模火災が発生し、延焼が3日間も続いて、甚大な被害をもたらした。震災の犠牲者は10万人を超えた。小田原地方でも強震や火災などの被害が多発し、小田原町はほとんど全壊状態だった。小田原教会は全壊こそ免れたが、大きな損傷を被った。教会が罹災した信徒たちの仮住まいとなったことから、数年の間、教会は被災を免れた信徒の家(高世家)の一室を仮聖堂にしてミサを挙げていた。

1926年(大正15年 昭和元年)

震災後、聖ヨゼフ教会のあった地域が歓楽街に移行したことから、教会は新しく現在の教会所在地(旧小田原町大字新玉二丁目404番地、現在の小田原市栄町4丁目)を購入して移転。既存の小さな民家を聖堂に仕立てた。当時はまだ震災の後遺症が残っており、受洗者は少なかった。

1931年(昭和6年)

幼いイエスの聖テレジア カトリック小田原教会が誕生

レミ・ルイ・マトン師(Remi Louis Mathon 1869 ~ 1945)62歳で小田原に着任。山形県鶴岡教会の天主堂建設に携わった師は、小田原の現在地に本格的な聖堂、司祭館、信徒館の建設に着手。同年初冬に教会堂が完成して、12月20日に献堂式。新聖堂の守護聖人は、かつての聖ヨゼフに代わり、聖人に挙げられてわずか6年目の「幼いイエスの聖テレジア」を戴いた。同年に幼稚園も創設。天主公教会小田原教会付属の私立新玉幼稚園として神奈川県より認可される。

(注)天主公教会とは、ローマ・カトリック教会の別称

マトン神父と信徒 完成当時の教会(昭和6年頃)
カトリック小田原教会 シャンボン大司教を迎えて堅信式(昭和7年)

1933年(昭和8年)

マトン神父 ルルドの聖母の前で

教会の庭にルルドを造営。(マトン師は「ルルドの姫君」という著書もあるルルド研究者)

1937年(昭和12年)

横浜教区 設立

11月9日 東京教区から神奈川、茨城、栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、静岡の8県が分離独立し、横浜教区として新設される。初代教区司教として東京教区大司教であったジャン・アレクシス・シャンボン大司教が任命される。

翌年2月20日 シャンボン大司教 着座

1945年(昭和20年)

3月24日 マトン師帰天(76歳)

4月 横浜教区司祭 日野久義師着任

小田原教会において66年に及んだパリ外国宣教会の司牧が、多くの遺産を残して終わる。

8月 太平洋戦争が終わる。教会の建物は奇跡的に戦災を免れ、徐々に教会活動が再開される。戦後の荒廃の中、道を求めて教会の門をたたく人たちが増える。日野神父は、子供たちの育成に力を注ぎ、幼稚園を復活させて教会を子供たちの居場所にした。また、信徒の集会室を利用して、和洋裁、茶道、哲学、ピアノ、英語など成人の教養講座を開講する。これが、現在も小田原教会にマリア学院の名称が残されている理由である。

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