あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい(マタイ 5‐16)

 主とともに歩む、その確信は、神からいただいた今日のみ言葉でいうならば、貧しくされ小さくされ、打ち砕かれて、苦しみ、悲しみ、裏切られたとき、あのイエスは教会を通してわたしを慰めてくださったことからくるのです。 

 普遍の教会といわれている、秘跡としての教会を通して、わたしたちはイエス・キリストの愛によって慰められます。その愛によって、わたしたちは慰められ、赦す力をいただきました。ときに裏切ることのある、目の前にいる教会の兄弟姉妹を赦し、和解し、ともに歩んでゆく。それが旅する教会、歴史の中で今を生きている教会の姿だと思います。 この歩みなくして、イエス・キリストが主であるという確信に至ることはできません。 

 パウロにおけるイエス・キリストが主であるという確信は、悲しみや責任から逃げてしまったら、得ることはできないでしょう。  パウロには知恵があったので、相手を論破することもできたでしょう。しかし、それによってキリストの弟子にすることはできないと言うのです。パウロは、自分が打ち砕かれていく中で悟ったのです。              愚かになること、・・・それも相手を大切にし、生かすために当たって砕け散ったその先に、主と復活のキリストが現れてくることを、パウロは悟ったのです。 キリストに繋がれた愛は、過ぎ去り消えるものではなく、打ち砕かれようとも希望を持って歩んでいけるのです。そんな確信に至らせるその恵みを、わたしたちは神父の言葉によってではなく、生(なま)の命のみ言葉と、皆さん自身の命との交わりの中で体験していくのです。それが、主イエス・キリストは神でありながら、肉を受けてこの世に来られた意味なのです。

主イエスは、今、わたしたちが生きているこの時に、その恵み、その光を受けなさいと言います。その光をもたらす道は、自分をではなく、相手を輝かせようとするところにあります。自分が貧しく、損をすることになろうとも分かち合い、後の見返りなど期待せずに、まわりから「なぜそんなことを」と言われても、相手を輝かせようとする、それこそが自らを輝かせる光になるのだと(第一朗読の中で)予言者を通して語られます。    その道筋で、わたしたちは必ず打ち砕かれます。そして自らの醜さがあらわになります。そのとき、これほどまで(相手のために)してあげたのに……と言ってしまいます。でも、その時にこそ、わたしを受け容れてくださった主キリストの十字架を見るのです。

 他者との」交わりの中で、自分の弱さや醜さを知るのでしょう。それらは相手との関わりでものを言っている間は見えてきませんが、その言葉を閉じ、沈黙のうちに神の前に立ったとき、知ることになるのでしょう。わたしたちの罪や弱さのために、主イエスを死へと追いやった自分自身の弱さを知るのです。にもかかわらず主イエスは、わたしたちをなじることなく、絶望の中にいるわたしたちに手を差しのべてくださいます。主イエスの言葉に信頼して自分自身を傾けることができるでしょうか。それは、わたしたち一人ひとりの信仰の中で主イエスに近づくかどうかによるのです。予言者は招くことしかできません。恵みに与るには、それぞれ自分自身が、その一歩を踏み出すしかありません。大人か、子どもかを問いません。わたしたちの中に生きている霊は、大人、子ども関係なく、主イエスを賛美し、主イエスに応えることができます。主イエスを感じ、神の前に立つ素晴らしさとその恵みを、幼いものに伝えていく責任が大人にあります。大人が知らなければ子どもに伝えることはできません。                             わたしたちは地の塩、世の光であるということを。

 わたしたちは主イエスと繋がることで光となります。わたしたちを輝かせているのは主イエス。その光がどこから来るのか、知りたくてたどると教会に行きつくのです。これが宣教の基になるのです。わたしたちも、主イエス・キリストに結ばれて光となりましょう。

2014年2月9日  年間第5主日 

                           高野哲夫神父説教から(抜粋要約) 

                                                       

 

                    

                           

                                                                                                                        

  

 

勧めの言葉 主の奉献 2014年2月2日

     見よ、彼が来る   ― キリストとの出会いの場 ―

 今日は、主の奉献の祝日です。4、5世紀から「マリアの清め」の祝日とされていたこの日は、「主の奉献」という古代の名称に戻されました。これは、私たちにとって、主キリストこそ中心であり、主キリストによって私たちは照らされ、導かれ、救いにあずかるという教会の信仰の宣言でもあるのでしょう。
 今日、一人の幼子が神殿に捧げられました。多くの幼子たちが捧げられている中で、誰が、この幼子の内に神の権威を見る事ができるのでしょうか。儀式が終われば、幼子は神殿を後にしますが、人々の中を通り過ぎる間に、誰が、幼子の内に神の救いを見る事ができるのでしょうか。
 そこには、出会いの場としての要素があります。神の「ことば」と、神の約束と、神の「ことば」にたいする忠実と希望です。
 ヨゼフとマリアは、想定外の出来事続きの中で告げられる神の「ことば」への信頼によって、主イエスを受け取りました。しかし、今、ヨゼフとマリアは歴史を通してイスラエルの民を導いておられる神への信仰によって、モーセの律法を忠実に果たそうと神殿に幼子を捧げます。また、シメオンもアンナも主の前にあって忠実であろうとし、主の約束に希望をおいていました。その中にあって二人は、主イエスと出会うように導かれ、主イエスに出会うように照らされ、主イエスを受け取る恵みをいただいたのです。
 私たちも、自分たちの思いの実現のために主の前に立つのではなく、主への忠実と主への希望の中で立つ事ができますように。その歩みの中で、主は、聖霊は、私たちが真の救いそのものである「主キリスト」と出会う事ができるように導いてくださいます。そして、今日も私たちは、主の呼びかけに忠実に応えようと集うその出来事の中で、主キリストと出会い、交わるのです。

 主の栄光が私たちの内に現れますように。アーメン。          主任司祭 高野哲夫

                                                  

 

 

2013年 クリスマスメッセージ

 主の御降誕おめでとうございます。

 私たちのうちに、救い主がお生まれになりました。この世界に…。この

方は、どのように私たちをお救いになるのでしょうか。私たちは、何をこ

の方に期待するのでしょうか。…子どもたちは、自分の欲しいクリスマス

レゼントを期待しているかもしれませんね。 …でも、その前に…私た

は、自分たちの期待をこの方にぶつける前に、…この方のみ顔を仰ぎ、こ

の方の息遣いを感じ、この方のみことばに耳を傾けたいと思います。つま

り、…この方を訪ねることから始めたいと思うのです。真の 「いのち」 と

出会う旅へ…

 日常に追われている羊飼いたちに、関心や興味に没頭している占星術の

学者たちに、ひとつの「ことば」、ひとつの「しるし」が与えられました

それは、ユダヤの王であり、救い主の誕生の「良い知らせ」でした。羊飼

いたちは、この「(天使の)ことば」を 我が事のように受け取って、日常から

離れ、救い主に会う旅を始めました。学者たちは、その「しるし(星)」を

我が事のように受け取って、相応しい贈り物を携えて、日常から離れ、

ユダヤの王に会う旅を始めました。

みことば」の導きに、「星」の導きに従って彼らが見たものは何だった

のでしょうか。彼らが見たものは、飼葉桶に寝かされている、貧しい夫

婦に抱かれている、「ただの」、「普通の」、「貧しい」 幼子だったのです。

しかし、「みことば」の、「星」の導きに信頼して、従って見つけた幼子の

内に、彼らは何を観たのでしょうか。 彼らが観たものは、神の業と、

神の権威の輝きでした。そして、幼子と出会った、神の業を受け取った

彼らのうちに、神からの喜びと平和が与えられたのです。主に信頼した

者たちへの神ご自身からのプレゼントでした。

 私たちも受けましょう、「いのち」のみことばを。私たちも信頼しまし

ょう、主の導きを。さあ、出かけましょう、たち世界から。私たちの

ためにお生まれになったイエス様に出会うために。……主からの喜びと

平和が、たちのうちにいつまでもありますように。 アーメン

                                                                       2013年12月24日

                             主任司祭 高野哲夫

 

主の昇天―希望の約束を与えられて―

 私たちは、キリストの言葉に魅力を感じました。私たちは、キリストの生き

方に惚(ほ)れました。私たちは、キリストの力に期待しました。しかし、私

たちはキリストの十字架の前で逃げてしまいました。キリストを「知らない」

と言ってしまいました。いや、むしろ、キリストは、私たちの期待を裏切った、

と切り捨ててしまいました。そんな中で、キリストの「わたしは死に渡される

が三日目に復活する」という言葉は、戯言(たわごと)のように感じていました。

 しかし、その言葉が実現しました。私たちに対する赦しと共に実現しました。

私たちへの愛と共に実現しました。「あなたがたに平和があるように」と・・・。

 私たちは、信じられませんでした。悟(さと)ることができませんでした。

理解できませんでした。主が真に復活されたことを。主の言葉が実現したこと

を。目の前で行われた出来事が、主の言葉の実現であることを。

 そんな私たちに、主ご自身が降りてこられ、何度も、何度も現れてください

ました。私たちが信じない者になるのではなく、信じる者となるように。何度

も、何度も・・・。私たちは、その中で、少しずつ信じることができているの

でしょうか。

 いま、主は私たちから離れようとされています。天に昇ろうとされています。

父の右の座に着こうとされています。私たちに言葉を残して。「力が覆(おお)

われるまで、都にとどまっていなさい」と。

 私たちはまだ、理解していません。できていません。しかし、私たちは、「あ

の時」、キリストが死に渡される時のようではありません。キリストと引き離

される悲しみの中にはいません。「死」を突きつけられて逃げ出すことはあり

ません。キリストの言葉が、不安と恐れの闇の中に紛(まぎ)れてしまうこと

もありません。私たちは、待つことができるでしょう。とどまることができる

でしょう。キリストの約束のうちに。希望をもって。・・・聖霊きてください。

急いで来てください。私たちは、待ち続けます。キリストを信じる者たちとと

もに。       

                                                                2013年5月12日 主任司祭 パウロ高野哲夫

 

 

生きた「ことば」が、わたしたちのうちにー 命の霊を吹き入れられて ー

この数日、私たちはアルジェリアで起きた人質事件に心を痛めていました。そして、その結末は、日本人を含む多くの犠牲者を出したという悲しい現実であり、私たちはそれを受け止めなければなりませんでした。なぜ、そのようになってしまったのでしょうか。「ことば」による交渉は、憎しみという衝動によって無にされ、力と力の争いは、多くの命を奪ってしまったのです。しかし、私たちはこの出来事だけを切り取って、正義を語ろうとするならば、憎しみと報復と言う終わりのない連鎖の中に引きずり込まれてしまうでしょう。この鎖を断ち切ることはできるのでしょうか。

今日、バビロンから戻されたイスラエルの民に、神のことば(律法)が与えられました。

私たちの主は、私たちの欲望を満たす神ではなく、私たちに「命のことば」を与えられる神です。律法とは本来、私たちの命を規制し、縛る「ことば」ではなく、闇の中、無知の中にいる私たちに光を与え、命を注ぎ、命へ導く愛の「ことば」です。この「命のことば」と出会い、イスラエルの民は涙しました。だから私たちは、この「命のことば」と出会う日を、生かされる日を、聖なる日と呼ぶのです。私たちは、この日、今日を聖なる日として祝いましょう。

ところで、夫婦生活は、新婚生活の新鮮さが過ぎてしまうと、お互いに慣れてしまい、心を留める事もなくなり、自動運転の日常生活になったりします。「神のことば」も同様です。イスラエルの民は、安息日ごとに会堂に集まり、「神のことば」を聞いていました。いつの間にか人々は、「神のことば」に慣れっこになり、「神のことば」の命に触れるのではなく、「神のことば」の意味を、説明を聞いて納得していたのかもしれません。「神のことば」が自分を生かす「命」ではなく、自分を満足させる「知識」になっていたのでしょう。

そこにイエスが現れました。「イエス」は何をしたのでしょうか。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」「神のことば」を……実現することば……生きたことば……命のことばにしてくださいました。何によってでしょうか。イエスの力によってでしょうか。違います。御父への信頼による、イエスの息吹によってです。それは、聖霊です。聖霊が、そのことばに命を与え、私たちのうちにとどまってくださり、私たちのうちで働いてくださるのです。私たちが、自分のうちに潜む闇の力から解放され、愛する事を、命を選ぶ事ができるのは、わたしたちの力ではなく、聖霊によってです。

皆さんは、気づいていますか。これからミサの中で主のことばが実現するのを……。「みな、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしの体である。・・・このことばは、今、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

今日、神のことばが実現した出来事の証人となる事ができますように。アーメン。

年間第三主日  第一朗読 ネヘミヤ  8:2‐4a、 5‐6、 8‐10
第二朗読 1コリント  12:12‐30
福音朗読 ルカ  1:1‐4、  4:14‐21)

 2013年1月27日 主任司祭 高野哲夫

 

血や肉にたよるのではなく―信仰によって神の業が始まる―

わたしたちは、家族の繋がり、血の繋がりを強く感じ、また意識します。特に日本の場合はそうかも知れません。養子縁組があまり進まないのも、血の繋がった自分の子を欲しいと思うのも、そのような意識が背後にあるのかも知れません。

 ところで、血の繋がり、家族の繋がり、親子の繋がりは、人と人との結束を強める反面、甘えや、ときには強制に感じる時もあります。「わたしの子なんだから…。お父さん、お願い…。兄弟だろ、いいじゃないか…。」依存したり、依存されたり、強制したり、強制されたり…わたしたちは、自分の人生の中でそんな経験をしていないでしょうか。その関係に甘え、埋没してしまうことが。

 今日の福音において、母マリアは「イエスの母」と記され、「マリア」という固有名詞は使われません。「マリア」という人ではなく、イエスにとっての「母」という関係をもった人であることが重要だったのではないでしょうか。最初、母は自分の子であるイエスに、ぶどう酒がなくなった事を告げます。母と子との関係において語りかけました。しかし、イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と突っぱねます。母と子における関係においては、動くことはありませんでした。しかしマリアは(さすが!ここが凄いところです!!)、母としてではなく、主を信じる者として、聴き従う者として、主のことばを受け入れる者として応答しました。「(『わたしの子が』とは言わずに!)この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」…そして、イエスは最初のしるしを行い、神の栄光を現されたのです。弟子は、現れた栄光を見て信じましたが、マリアは栄光を見ないで信じたのです。その信仰が、主イエスを突き動かしました。

 しかし、このマリアの信仰という賜物は、自分の努力ではなく、聖霊によって与えられたものです。「聖霊があなたに降り…」といった天使ガブリエルの言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったマリアに与えられたのです。

 さあ、私たちもマリアのように主のことばを受け入れましょう。私たちを「望まれるもの」と言われ、「喜び」と言ってくださる主にこそ信頼することができますように。

年間第2主日、ヨハネ2:1-11)

2013120日 主任司祭 高野哲夫

クリスマスーこの不思議な日 ー

主の御降誕おめでとうございます。
私たちの主イエス・キリストがお生まれになりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方(ルカ1:45)からお生まれになりました。
「信頼」の中からお生まれになったのです。「不信」の中からは、お生まれにはなりませんでした。
不信の世に、闇の世にお生まれになりましたが、信頼の内にお生まれになったのです。それは、闇の中で輝くためでした。その輝きはすべてを照らします。闇の中で輝けば、誰でもがそれを見つけることができます。でも、この輝きは、「信頼」がないと見つけることができません。
クリスマス……私たちの主イエス・キリストの誕生を記念する日。私たちにとってとても大切な日。……でも……日本では、主イエスを知らない人たちにとっても大切な日みたいです。街中で……家で……クリスマスをお祝いしています。
この日には、大切な人と過ごしたいと思い、この日に、大切な人に自分の真実を、愛を告白したいと思う人もいます。バレンタインの義理のチョコレートではなく、自分の真実を伝えようと与えようと思います。
クリスマス……自分の真実を、愛を告白する日。自分の真実を、愛を与える日。信頼の中で、相手の真実を、愛を受け取る日。人の心の中に、そんな思いを起こさせる光が差し込む日。不思議な力をもった日です。
クリスマス……すべての人にとって、希望の時となりますように。
クリスマス……すべての人が、信頼の道を歩み出す時となりますように。