主の昇天―希望の約束を与えられて―

 私たちは、キリストの言葉に魅力を感じました。私たちは、キリストの生き

方に惚(ほ)れました。私たちは、キリストの力に期待しました。しかし、私

たちはキリストの十字架の前で逃げてしまいました。キリストを「知らない」

と言ってしまいました。いや、むしろ、キリストは、私たちの期待を裏切った、

と切り捨ててしまいました。そんな中で、キリストの「わたしは死に渡される

が三日目に復活する」という言葉は、戯言(たわごと)のように感じていました。

 しかし、その言葉が実現しました。私たちに対する赦しと共に実現しました。

私たちへの愛と共に実現しました。「あなたがたに平和があるように」と・・・。

 私たちは、信じられませんでした。悟(さと)ることができませんでした。

理解できませんでした。主が真に復活されたことを。主の言葉が実現したこと

を。目の前で行われた出来事が、主の言葉の実現であることを。

 そんな私たちに、主ご自身が降りてこられ、何度も、何度も現れてください

ました。私たちが信じない者になるのではなく、信じる者となるように。何度

も、何度も・・・。私たちは、その中で、少しずつ信じることができているの

でしょうか。

 いま、主は私たちから離れようとされています。天に昇ろうとされています。

父の右の座に着こうとされています。私たちに言葉を残して。「力が覆(おお)

われるまで、都にとどまっていなさい」と。

 私たちはまだ、理解していません。できていません。しかし、私たちは、「あ

の時」、キリストが死に渡される時のようではありません。キリストと引き離

される悲しみの中にはいません。「死」を突きつけられて逃げ出すことはあり

ません。キリストの言葉が、不安と恐れの闇の中に紛(まぎ)れてしまうこと

もありません。私たちは、待つことができるでしょう。とどまることができる

でしょう。キリストの約束のうちに。希望をもって。・・・聖霊きてください。

急いで来てください。私たちは、待ち続けます。キリストを信じる者たちとと

もに。       

                                                                2013年5月12日 主任司祭 パウロ高野哲夫

 

 

生きた「ことば」が、わたしたちのうちにー 命の霊を吹き入れられて ー

この数日、私たちはアルジェリアで起きた人質事件に心を痛めていました。そして、その結末は、日本人を含む多くの犠牲者を出したという悲しい現実であり、私たちはそれを受け止めなければなりませんでした。なぜ、そのようになってしまったのでしょうか。「ことば」による交渉は、憎しみという衝動によって無にされ、力と力の争いは、多くの命を奪ってしまったのです。しかし、私たちはこの出来事だけを切り取って、正義を語ろうとするならば、憎しみと報復と言う終わりのない連鎖の中に引きずり込まれてしまうでしょう。この鎖を断ち切ることはできるのでしょうか。

今日、バビロンから戻されたイスラエルの民に、神のことば(律法)が与えられました。

私たちの主は、私たちの欲望を満たす神ではなく、私たちに「命のことば」を与えられる神です。律法とは本来、私たちの命を規制し、縛る「ことば」ではなく、闇の中、無知の中にいる私たちに光を与え、命を注ぎ、命へ導く愛の「ことば」です。この「命のことば」と出会い、イスラエルの民は涙しました。だから私たちは、この「命のことば」と出会う日を、生かされる日を、聖なる日と呼ぶのです。私たちは、この日、今日を聖なる日として祝いましょう。

ところで、夫婦生活は、新婚生活の新鮮さが過ぎてしまうと、お互いに慣れてしまい、心を留める事もなくなり、自動運転の日常生活になったりします。「神のことば」も同様です。イスラエルの民は、安息日ごとに会堂に集まり、「神のことば」を聞いていました。いつの間にか人々は、「神のことば」に慣れっこになり、「神のことば」の命に触れるのではなく、「神のことば」の意味を、説明を聞いて納得していたのかもしれません。「神のことば」が自分を生かす「命」ではなく、自分を満足させる「知識」になっていたのでしょう。

そこにイエスが現れました。「イエス」は何をしたのでしょうか。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」「神のことば」を……実現することば……生きたことば……命のことばにしてくださいました。何によってでしょうか。イエスの力によってでしょうか。違います。御父への信頼による、イエスの息吹によってです。それは、聖霊です。聖霊が、そのことばに命を与え、私たちのうちにとどまってくださり、私たちのうちで働いてくださるのです。私たちが、自分のうちに潜む闇の力から解放され、愛する事を、命を選ぶ事ができるのは、わたしたちの力ではなく、聖霊によってです。

皆さんは、気づいていますか。これからミサの中で主のことばが実現するのを……。「みな、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしの体である。・・・このことばは、今、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

今日、神のことばが実現した出来事の証人となる事ができますように。アーメン。

年間第三主日  第一朗読 ネヘミヤ  8:2‐4a、 5‐6、 8‐10
第二朗読 1コリント  12:12‐30
福音朗読 ルカ  1:1‐4、  4:14‐21)

 2013年1月27日 主任司祭 高野哲夫

 

血や肉にたよるのではなく―信仰によって神の業が始まる―

わたしたちは、家族の繋がり、血の繋がりを強く感じ、また意識します。特に日本の場合はそうかも知れません。養子縁組があまり進まないのも、血の繋がった自分の子を欲しいと思うのも、そのような意識が背後にあるのかも知れません。

 ところで、血の繋がり、家族の繋がり、親子の繋がりは、人と人との結束を強める反面、甘えや、ときには強制に感じる時もあります。「わたしの子なんだから…。お父さん、お願い…。兄弟だろ、いいじゃないか…。」依存したり、依存されたり、強制したり、強制されたり…わたしたちは、自分の人生の中でそんな経験をしていないでしょうか。その関係に甘え、埋没してしまうことが。

 今日の福音において、母マリアは「イエスの母」と記され、「マリア」という固有名詞は使われません。「マリア」という人ではなく、イエスにとっての「母」という関係をもった人であることが重要だったのではないでしょうか。最初、母は自分の子であるイエスに、ぶどう酒がなくなった事を告げます。母と子との関係において語りかけました。しかし、イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と突っぱねます。母と子における関係においては、動くことはありませんでした。しかしマリアは(さすが!ここが凄いところです!!)、母としてではなく、主を信じる者として、聴き従う者として、主のことばを受け入れる者として応答しました。「(『わたしの子が』とは言わずに!)この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」…そして、イエスは最初のしるしを行い、神の栄光を現されたのです。弟子は、現れた栄光を見て信じましたが、マリアは栄光を見ないで信じたのです。その信仰が、主イエスを突き動かしました。

 しかし、このマリアの信仰という賜物は、自分の努力ではなく、聖霊によって与えられたものです。「聖霊があなたに降り…」といった天使ガブリエルの言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったマリアに与えられたのです。

 さあ、私たちもマリアのように主のことばを受け入れましょう。私たちを「望まれるもの」と言われ、「喜び」と言ってくださる主にこそ信頼することができますように。

年間第2主日、ヨハネ2:1-11)

2013120日 主任司祭 高野哲夫