生きた「ことば」が、わたしたちのうちにー 命の霊を吹き入れられて ー

この数日、私たちはアルジェリアで起きた人質事件に心を痛めていました。そして、その結末は、日本人を含む多くの犠牲者を出したという悲しい現実であり、私たちはそれを受け止めなければなりませんでした。なぜ、そのようになってしまったのでしょうか。「ことば」による交渉は、憎しみという衝動によって無にされ、力と力の争いは、多くの命を奪ってしまったのです。しかし、私たちはこの出来事だけを切り取って、正義を語ろうとするならば、憎しみと報復と言う終わりのない連鎖の中に引きずり込まれてしまうでしょう。この鎖を断ち切ることはできるのでしょうか。

今日、バビロンから戻されたイスラエルの民に、神のことば(律法)が与えられました。

私たちの主は、私たちの欲望を満たす神ではなく、私たちに「命のことば」を与えられる神です。律法とは本来、私たちの命を規制し、縛る「ことば」ではなく、闇の中、無知の中にいる私たちに光を与え、命を注ぎ、命へ導く愛の「ことば」です。この「命のことば」と出会い、イスラエルの民は涙しました。だから私たちは、この「命のことば」と出会う日を、生かされる日を、聖なる日と呼ぶのです。私たちは、この日、今日を聖なる日として祝いましょう。

ところで、夫婦生活は、新婚生活の新鮮さが過ぎてしまうと、お互いに慣れてしまい、心を留める事もなくなり、自動運転の日常生活になったりします。「神のことば」も同様です。イスラエルの民は、安息日ごとに会堂に集まり、「神のことば」を聞いていました。いつの間にか人々は、「神のことば」に慣れっこになり、「神のことば」の命に触れるのではなく、「神のことば」の意味を、説明を聞いて納得していたのかもしれません。「神のことば」が自分を生かす「命」ではなく、自分を満足させる「知識」になっていたのでしょう。

そこにイエスが現れました。「イエス」は何をしたのでしょうか。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」「神のことば」を……実現することば……生きたことば……命のことばにしてくださいました。何によってでしょうか。イエスの力によってでしょうか。違います。御父への信頼による、イエスの息吹によってです。それは、聖霊です。聖霊が、そのことばに命を与え、私たちのうちにとどまってくださり、私たちのうちで働いてくださるのです。私たちが、自分のうちに潜む闇の力から解放され、愛する事を、命を選ぶ事ができるのは、わたしたちの力ではなく、聖霊によってです。

皆さんは、気づいていますか。これからミサの中で主のことばが実現するのを……。「みな、これをとって食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしの体である。・・・このことばは、今、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

今日、神のことばが実現した出来事の証人となる事ができますように。アーメン。

年間第三主日  第一朗読 ネヘミヤ  8:2‐4a、 5‐6、 8‐10
第二朗読 1コリント  12:12‐30
福音朗読 ルカ  1:1‐4、  4:14‐21)

 2013年1月27日 主任司祭 高野哲夫