血や肉にたよるのではなく―信仰によって神の業が始まる―

わたしたちは、家族の繋がり、血の繋がりを強く感じ、また意識します。特に日本の場合はそうかも知れません。養子縁組があまり進まないのも、血の繋がった自分の子を欲しいと思うのも、そのような意識が背後にあるのかも知れません。

 ところで、血の繋がり、家族の繋がり、親子の繋がりは、人と人との結束を強める反面、甘えや、ときには強制に感じる時もあります。「わたしの子なんだから…。お父さん、お願い…。兄弟だろ、いいじゃないか…。」依存したり、依存されたり、強制したり、強制されたり…わたしたちは、自分の人生の中でそんな経験をしていないでしょうか。その関係に甘え、埋没してしまうことが。

 今日の福音において、母マリアは「イエスの母」と記され、「マリア」という固有名詞は使われません。「マリア」という人ではなく、イエスにとっての「母」という関係をもった人であることが重要だったのではないでしょうか。最初、母は自分の子であるイエスに、ぶどう酒がなくなった事を告げます。母と子との関係において語りかけました。しかし、イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と突っぱねます。母と子における関係においては、動くことはありませんでした。しかしマリアは(さすが!ここが凄いところです!!)、母としてではなく、主を信じる者として、聴き従う者として、主のことばを受け入れる者として応答しました。「(『わたしの子が』とは言わずに!)この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」…そして、イエスは最初のしるしを行い、神の栄光を現されたのです。弟子は、現れた栄光を見て信じましたが、マリアは栄光を見ないで信じたのです。その信仰が、主イエスを突き動かしました。

 しかし、このマリアの信仰という賜物は、自分の努力ではなく、聖霊によって与えられたものです。「聖霊があなたに降り…」といった天使ガブリエルの言葉を受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったマリアに与えられたのです。

 さあ、私たちもマリアのように主のことばを受け入れましょう。私たちを「望まれるもの」と言われ、「喜び」と言ってくださる主にこそ信頼することができますように。

年間第2主日、ヨハネ2:1-11)

2013120日 主任司祭 高野哲夫

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